私はこうしてプロになりました。高瀬愛虹 編
作詞家 高瀬愛虹
幼少期
私が作詞家を目指したのは小学生のときです。5歳からエレクトーンを習っていたので
音楽に馴染みがあり、きっかけは音楽番組でした。
私が子供の頃は、毎日のように音楽番組が放送されていて、音楽は今よりも茶の間に寄り添う
コンテンツでした。
音楽単体というより曲+歌詞+アーティスト+映像(ミュージックビデオ)という
融合コンテンツとして興味を持ちました。その中でも作詞をすることに強く惹かれ、
小学校4年生頃から歌詞を書き留めておくようになりました。
中学時代
中学生の頃には、「歌詞は人を救うチカラがあるもの」「歌詞は人を楽しませるもの」
だから作詞家になりたいと、明確な理由を持って目指すようになりました。
また、「作詞は音楽においての脚本家」だと感じるようになったので、
アーティストという演者=パフォーマーがいて存在するものであり、
リスナーとアーティストのための歌詞を書くことを意識し始めました。
それから、レンタルCDショップへ買い物ついでにCDを借りて歌詞を書き写して、
次の買い物のときにまた別のCDを借りて…ということを繰り返していたので、
作詞の基礎をこの時期に自然と身につけられたように思います。
中学3年生のときは、お下がりのパソコンを使って作詞の勉強ができる専門学校を
インターネットでみつけ、三者面談に持って行きました。
子供の頃から我が道を行く行動派だったと思います。
高校時代
音楽の勉強ができる高校に行きたいと考えていた時期もあったのですが、
高校は推薦のお話をいくつかもらった中から、日本大学の付属の高校に進学しました。
両親から、「日本大学は芸術学部に音楽学科もあるから、3年間で気持ちが変わらなければ音楽学科に行けばいい。
他にやりたいことが見つかった場合は、日大ならそのやりたい勉強ができるかもしれない」という
アドバイスを受けての事です。
しかし、音大(私の場合は芸術学部の中の音楽学科ですが)というのは、前々から準備が必要な
世界でもあるので、高校2年生の頃から準備を始めました。
そのため、音楽以外の道を考える時間は全くなかったです。
また日本大学芸術学部は、音楽学科以外にも放送学科や映画学科、演劇学科など全部で8学科ありますが、
J-POPは他のメディアとの関わりがあるビジネスだと思っていたので、
「その手の道に進むであろう知り合いを増やしたい」「少なくともマスコミ業界で働きたい」
と思っていたので、他の音大と比べてもベストだと思いました。
高校2年生になると、歌詞を紙の上だけの未完のものではなく、
音源を作って形にしたいと思うようになり、DTMを習い始めました。
地元に学べるスクールがなかったので月2で片道1時間くらい掛けて通いました。
他にも受験のためにさらに時間を掛けて東京に通うこともあったので勉強に音楽に…
高校生活は大学に合格するために必死の3年間でした。
大学生
無事、志望していた日本大学芸術学部音楽学科情報音楽コースに合格。
20歳くらいのときにインターネットで「作詞家になるには作家事務所に入るといい」と知ったので、
受けてみたものの連絡はなく…。
日芸に入ったことで、他のマスコミ業界の仕事にも興味を持ち始めたのと、
「作詞家になるなんて絶対難しい。」そんな固定概念を抱くようになり、
たった1回の挑戦で諦めモードになりました。
その後、在学中にコピーライターのスクールに通うようになります。
コピーライターの勉強をしたことで“何”を“どのように言うか”という、
作詞にも通じることを学べました。
しかし同時に、「クリエイティブすぎてつまらない」と思う気持ちも芽生えました。
でも、ただ自分の想うことだけを表現するだけのアーティストになりたいわけでもない。
作詞家という仕事が、クリエイターとアーティストの中間にある、
本当にやりたいことだと実感させられました。
しばらくして、就職活動を早くから始めたものの中々うまく行かず、
ここらで1度本当に好きなことにチャレンジするのもありかと、
作詞家になるための活動をしたところ、コンペをもらえるようになりました。
するとインディーズでしたが、割とすぐに歌詞提供をすることが決まりました。
人生決めつけはよくないもので、私の中では就職するより作詞家になる方が苦戦はしませんでした。
念願の作詞家に
「インディーズの仕事は決まるのに、メジャーの仕事が決まらない。」
そんな時期が1年半くらいありました。この期間は作詞家として活動した中で1番苦しかったです。
「本当に大丈夫なのかな?」と毎日のように不安でした。学業と並行していた時期もあったので、
作詞・学校・バイト・論文で精神的にもつらかったです。でも、子供の頃からガムシャラで、
「作詞しか私にはない」という強い想いがあったので諦めるつもりは全くなく、
走り続けていました。
今ではアニメ関係の歌詞提供が多いですが、アニソンの研究を始めたのは、
作詞家になってからでした。
具体的には主題歌やキャラソンを聞いて、アニメを観て歌詞を分析するという研究ですが、
アニメとアイドルの分野は作詞家の仕事が多い分野なので、この2つを得意分野にしたいと考えたからです。
自分を高める研究を続けながら活躍されているプロの方にアドバイスを頂いたり、
常に何かしらの行動はしていました。
そして、それまで作家事務所に入っていたわけではなかったので、作家事務所を受けてお世話になるようになり、
それからすぐメジャーへの提供も決まり提供数も増えて行きました。
プロで活躍されている方に「どうしたら○○さんのようになれますか?」と質問をすると、
『ひたすら続けていたら今になる』と答えて下さった方が多いです。今では私も全くの同意見です。
「今の苦しい状態がずっと続くのではないか?」と思っていましたが、無意味な不安は次第になくなりました。
振り返ると、子供の頃から私は人に恵まれていました。
自分の夢を叶えたいと伝えると協力してくれる方にたくさん出会えました。
自分ひとりのチカラで叶えたわけではないので、感謝の想いを忘れずにいたいです。
苦しんでいる人を助けてあげられるような、ときには楽しませるような、
音楽を聴く人をプラスの方向に導ける歌詞を書くこと。
アーティストの魅力を引き出して輝かせる歌詞を書くこと。
今までにないような斬新な歌詞で、歌詞の可能性を広げること。
作詞家を目指し始めた頃とずっと変わらない3つのモットーを大切に、
これからも作詞家として邁進して行きたいです。
高瀬愛虹
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